▼管理人@ユキ/病院&医師との出会い

 2004年の4月の終わりに、私は、ある病院に行きました。
 ここでは、肥満減量入院をやっていると知人から聞き、この病院のサイトも見ました。
 そこで私が魅かれたのは、医師・看護師・薬剤師・栄養士・検査技師・運動療法士
 そして精神科医とも連携を取っていると言うことでした。
 精神科医は、私には大きな役目を果たすと思ったので、ポイントでした。
 それともう1つ。
 減量に関わるドクター達の紹介で、某医大の出身者達が居る事に注目しました。
 この某医大は、拒食症に力を入れていると言う事は知ってましたので、当時は
 ココなら痩せるだけではなくて、摂食障害も何とかなるかな?とちらっと思ったのです。

 そして、私は、この病院の外来を訪れました。
 始めは総合内科外来で受診をしましたが、話を聞いた医師が、担当医師と連絡を取ってくれ
 後日、私の主治医となる医師と初対面となりました。


 当時の私は、精神的にも追い込まれていました。


 2000年8月に母が急逝し、母の死を悲しむ間もなく、残された父が心配で、ただひたすら
 父の為に過ごしてきた私(当時、2度目の脳梗塞をやった後で、要介護ではありませんでしたが、
 多少の言語障害や指先の感覚の鈍りがあり、月の半分は、東京から遠く離れた実家に
 帰っていました) 全て、生活は父が中心でした。 実家に居る時はもちろん、東京にいる時も、
 毎日決まった時間に、電話で話をしていました(父の健康確認と、話す事のリハビリも兼ねて)
 そして、いつ実家に帰るかを中心に在京の予定を組む。

 そんな生活をしていたのですが・・・
 2003年の1月2日から3日に日付が変わる頃に、父が不調を訴え(それまでも風邪気味と言って
 体調は優れないようでした) 3日未明に救急で搬送しました。
 搬送先で、医師に言われたのは、余命1ヶ月(「もって2月」と言われました)の宣告。
 それ迄、父は、心筋梗塞や脳梗塞で入院しましたが、内臓疾患で入院した事はありませんでした。
 父は、肝悪性腫瘍と診断され、肝臓の3分の2が腫瘍で、もう、手が施せない状態でした。
 父の入院生活の半分である約2週間は、私も病室に泊まりこみ、父との時間を大切にしてきました
 (父には、余命の事は言いませんでした)

 父は、疼痛があり、モルヒネを使っていましたが、いまから思うと、父は眠りが多くなった訳でもなく
 父らしい状態で居続けてくれたな〜と思います。
 亡くなる2日前に、呼吸困難を起こした時に、私も予感があり、夫に電話をして、
 覚悟した上で来てくれと話しました。翌日、夫が病院に来て、その晩は3人で病室で過ごしました。
 父が入院して以来、初めて穏やかに眠っていました。 私も、久しぶりに眠る事が出来たし。
 翌日も、3人で穏やかに過ごしました。 父は、モルヒネを使っているとは思えない位、今まで以上に
 穏やかで、そして父らしく、そんな状態で過ごせました。

 その日の夕方、呼吸困難の発作を起こし、2時間苦しんだ末に呼吸が変わり、
 父はやっと楽になりました・・・。 最期、呼吸が変わり、本人の意識は無かった時ですが
 「もう頑張らなくて良いよ。今までありがとうね。」と私が言った時に、
 父の右目の目頭に、ぷ〜っと涙が溢れてきました。 私の最後の声が、父にも届いたと思っています。
 そう思えたので、後悔は1つもありません。

 その後、父の為にも、ちゃんと見送りたいと思って、通夜や葬儀も、喪主としてやりのけ、
 その後の事務的な事も、あれこれとこなしてきました。
 父には、余命を言えず隠し通した事で、周りの人にも父の病状をいえず、全てを1人で抱え込み
 父の前では泣かない・辛い顔を見せないで、いつ別れが訪れるのか?って事に怯えながら
 過ごした日々。 後悔の無い看護をしたと言っても、私の精神状態は、もういっぱいいっぱいでした。

 半月位して帰京した時、初めて悲しみと空虚感が押し寄せ、何とも言えない気持ちになりました。
 母が亡くなった後、ずっと父中心に生活してきた私は、何を目標にすれば良いかわからなくなりました。
 何の為に頑張り、誰の為に生きて、どうやって生活していけば良いのかわからなくなったのです。


 そんな気持ちを分かち合えた、唯一の友人が居ました。 彼女は、遠く熊本市内に住んでいたのですが
 彼女とは、母が亡くなった頃に知り合っていて、当時は、彼女も大切な存在を亡くしたばかりだったので、
 お互いにその空虚感や、時が流れても、自分だけが取り残されて行くような気持ちを共感しあっていました。
 そして、何よりも、お互いに、早く大切な存在の人の元へ行きたい・・・そう思っていました。
 こんな気持ちを、素直に言いあえたのは、彼女も私も、お互いに、他に居ませんでした。

 そんな彼女が、ある日突然、亡くなりました。 自ら命を絶ったのではないんですが、
 彼女がこの世から居なくなったのは、私の最後の支えが無くなったという事であり、
 彼女だけ大切な人の元へ行けたって事がずるいよ。と思いもしました。 そして、この事が、それまでは、
 何とか踏ん張ってきた自分の気持ちを、コントロール出来なくなってしまったのです。
 風邪をひいたら、このままほっとけば肺炎になって、手遅れにならないかな?とか、
 車の運転中に、このままブレーキを踏まなかったらどうなるかな?とか思っていました。


 友達が亡くなったと聞いてから1ヵ月後。 半分は、この状態から抜け出したいと思う前向きな気持ちと
 半分は、身体のあちこちの不調が不治の病だったら・・・と言う後ろ向きな気持ちもあって、
 病院を訪れてました。 後の主治医となる医師と対面した時、私のこのような状態や背景、気持ちなども
 話をしました。 摂食障害があるって事さえも、誰1人として話した事がなかったし、
 「生きる」と言う気力さえもなくなっている私の状態を話したのも、この医師が初めてでした。

 そうです、身近に居るはずの夫にも、話した事がなかったのです。話を聞き終えた医師が言った言葉は
 「そこまで思ってしまってたのか...。入院して変えてみようか?」でした。 
 こうして、私は入院が決まったのでした。


 入院決定と言っても、この病院での肥満減量入院と言うのは、「糖尿病チームケアユニット」が行うもので
 糖尿病を始めとする、あらゆる病気の原因となる肥満を解消する為の減量入院となる訳ですが、
 その時の私は、それでも良かったのです。 精神科医のカウンセリングもあるし、拒食を専門にしている病院の
 出身ドクターも居るし、私の話を聞いた上で入院を許可してくれたので、まずは減量する事で、何かが
 変わるかもしれないって思いました。

 ただ、入院当時の私の体重は76.8キロでしたが、70キロ台の患者は、今まで受け入れた事が無いと言われ
 自分としては太っていると思っていましたが、本来の肥満減量入院をする患者としては、軽度のようでした。
  *退院時には62.3キロでしたが、そこから約1年後の4月には、50`を切って40キロ台達成出来ました。
  (2回目の入院では、増えつつあった体重を戻しただけなので、約6キロ落とし50.6キロまで戻しました。
  それ以後は、体重の面ではだいぶ波がなくなり47〜48キロ代ですが、体調的なことやメンタル的なこと
  PMSなどで46〜51キロの変動は直ぐです^^;)


 前面的に、この病院では、肥満減量入院としては出していませんが、2004年の私の入院時に、
 減量目的の女性が一番多く居た時期は、4人居ました(20代女性と30代女性2名づつ)
 でも、翌年(2005年)の入院は、私1人でした。
 病院の事情もあると思いますが、2005年は、減量入院は1ヶ月となっていました。
 その1ヶ月間はベットが動かないので、回転が悪くなるのもあるのでしょうね。
 ちなみに、私の入院した病院はココ

 (注釈)
 摂食障害を治療する場合に、方法の1つに、入院治療があります。
 この場合は、たいていが精神科病棟の入院となります。
 それは、行動や持ち物等の制限があったりするので、どうしても、そこまで踏み切れない自分がいました。